我が青春と音声の研究

鈴木 誠史

音声グループ在籍:1955〜1980.7.12(初代音声研究室長、前所長)
現職:埼玉大学工学部情報工学科 教授

 私は昭和30年に入所したが、それまで音声の研究に関係したことはない。ただ、オーディオのアマチュアとしての道を歩いていた。アンプ類を手掛けるだけでなく、ヘッドからフライホイールまで主要な部品を手作りしてテープレコーダを何台か作ったし、コンデンサマイクやエコーマシンも製作した。オーディオ協会の事務局に籍を置き、ステレオAMの実験や、オーディオフェアの運営に当たったりした。
 入所して、最初に配属された機器課調査係、その後第2電波課雑音係とマージして発足した通信方式研究室は、通信理論に関わる研究を立ちあげるため、研究テーマ、研究の進め方を模索していた。従って、研究活動もやや混乱していた。零交差波による音声の分析と伝送の実験を行うほか、TVのオフセットキャリア方式の実験や、電子フィルタ、雑音測定器、人工衛星受信機の作製などを行い、便利屋的存在になっていた。
 アマチュア時代の経験から、物を作る事には抵抗はなかったが、アマチュア式はプロとしての考えかた、手法とは相入れないものがあり、当初はかなり戸惑ったものである。ただ、新しい分野であるだけに研究の方向が定まらないなど、研究の進め方にも納得できない点があった。
 昭和34年になって、中田さんが米国から帰国された。中田さんは、Fant, Stevens らによる、音声の音響的生成理論、これらに立脚した合成、知覚に関わる実験手法を体得して来られた。また計算機が、極めて重要な研究の道具であることを力説された。これらは、電波研にとっても、また我が国の音声研究にとっても、黒船到来にも匹敵する刺激になったと考えられる。
 それから暫くの間は迷うことはなかった。中田さんを手伝って、ターミナルアナログ型の音声合成器を作り、知覚実験を行った。また、音声に関する勉強の方向も明らかになったし、毎日が新しいことの連続であった。
 引き続き、母音、数字語の認識装置を製作したが、この発表は京大−NECの認識装置より先行した。よりフレキシブルで高度な処理をするためには、計算機による処理が必要であるとの見解に立ち、NECと共同研究を結び、同社のパラメトロン計算機を使うために、玉川工場へ通う日が続いた。その間、電波研にもNEAC2203が設置され、徐々に研究の場所は電波研に移った。ともかく、計算機を研究に活用する点では、他の先達となることができた。
 また、中田さんは、積極的に外部に発表すること、英文の論文を書くことを指導し、実践したのである。この研究分野を理解できる人が所内に居ず、国内にもほとんど居ないことを考えると、当然のことである。しかし、当時の電波研の幹部には、 "学会に出る必要はない。論文は機関誌に発表すればよい" という人が多かったことを思えば大変な卓見だったと思う。外貨を支払えなかったため、外国の学会誌への投稿が少ないとか、国際学会への発表に制約があった事などを除けば、この方針は守ることができたと思う。
 合成(知覚)実験、認識実験を初めとして、日本で初めての研究を、みんなと一緒に数多く手掛けることが出来たのは、研究者冥利に尽きると言えよう。初めての仕事としては、日本におけるFFTソフトの開発とその活用、音源の性質の研究、音源も含めた分析法の開発などがあり、システマティックなプロジェクト研究としては、ヘリウム音声の研究、雑音減少方式に関する研究があげられる。新しいものに取り組む度に、未知の事が多く、皆で夜遅くまで議論したり、実験を重ねる事も多かった。
 そのモーチベーションとしては、研究を進める途中で、次々にチャレンジすべき新しいテーマが見えて来ること、失敗も多かったが、皆の努力で新しい結果が得られたことも大きな励みであった。また、研究所のマイノリティとして、常に全力で走り成果を上げていないと、存続も危ぶまれたこともあげられよう。一方、衛星計画のようなビッグプロジェクトに参画しなかったことは、研究費では苦しくても、自分の時間を持ち、自主的な研究をすることができたと言えよう。
 反省する事も多い。所の機関誌だけでなく、学会誌に投稿すべき論文があったFFTとその応用は、もっと宣伝すべきであった、などがあげられる。後半はやりたいことが多くなり、英文論文の発表が少なくなった。しかし、ワープロもなく、計算機出力で図を描くこともほとんど出来なかった時代だったのだから、室員の努力も大変だった訳で、止むを得ない仕儀でもあった。
 音声の研究に関係して1/4世紀、中田さんの指導の下に、夢中で過ごした若い時代、責任者として皆と共に働いた後半、全てが懐かしく思い出される昨今である。その間、通信総合研究所の先駆けともなる成果を上げることが出来たのは、共に歩んだ角川、中津井、高杉、田中、猿渡、吉谷、大山の各氏と、多くの研修生の努力の賜物である。ここに心から謝意を表する次第である。
 また、この間には、 "電波研でなぜ音声をやるのか" との質問を数多く受けた。また、 "そんなくだらないことをしないで、マイクロ関係の研究でもやったらどうだ" という上司もあった。しかし、通信に関する研究者のいない研究所で、ほとんどが電離層、電波伝搬に関わっている時代に、通信方式研究室を設置した当時の幹部の識見に、改めて敬意を表する。
 この6月末日に退官の日を迎えたが、その1か月前に音声研究室は解消し、知覚機構研究室として新しい一歩を踏み出した。電波研究所における、音声研究の誕生と発展に関わったものの、30年余を経てその最後の幕を引く立場になるとは、予想だにもしなかった。
 しかし、音声研究室はその役を十分に果たしたし、次への発展のためには新しい器と中身が必要である。音声研究室の最後のメンバーでもある柳田室長、滝沢、野田の両氏、それに新たに若手2人を加え、知覚機構研究室が電気通信フロンティア研究の核となり、新生通信総合研究所の未来を支え、新たな黄金時代を築くことを期待する。

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